柿川夜桜閑話 55 ガマと手水鉢 宝田石油 山田又七

柿川夜桜閑話 55 ガマガエルと手水鉢 宝田石油 山田又七

アオーレに隣接する城内稲荷社に鉄のガマの賽銭箱と石の手水鉢がある。おそらく100年以上は経っている。これらは東坂之上1丁目にあった宝田石油本社内の神社に奉納されたものであった。ガマは鉄工業者から、手水鉢は株式仲買人からのものであった。

宝田石油は明治中期から大正にかけて日本の石油産業の一翼を担い、現・ENEOSの前身であった。長岡は、石油事業を中心に金属加工や工作機械、そして石油関連の債権市場など活況を呈した。余談ながら後年消雪パイプ発祥の地となるのはこうした背景があるとも言える。

宝田石油は長岡出身の山田又七(1855年-1917年)である。山田は東山の水田に原油が浮いているのを見て石油掘削の事業を始めた。その後参入した中小の業者を買収統合して、採掘から精製まで一貫して行う石油会社に育てた。

その成功には長岡を復興に導いた三島億二郎(1825年-1893年)岸宇吉(1839年 – 1910年)の存在が大きかった。戊辰戦争で焦土と化し、更に朝敵とされ国家の援助が期待できない長岡で死にものぐるいで復興に向かう常在戦場の体現であった。

その意味では、神社に奉納した市民も同様であり、加えて石油という自然の恵みを与えてくれた長岡の大地への感謝があった。

三島億二郎(1,825年-1892年)佐久間象山に学び、ペリー来航の際は幕命により浦賀に偵察に赴いた。 戊辰戦争では軍事掛として各地に転戦。戦後は長岡藩大参事として藩士家族の救済と産業の復興にあたった。 長岡復興の恩人。

岸宇吉 (きし うきち)(1839年-1910年)
三島億二郎らと「ランプ会」を開き、第六十九国立銀行の設立に参画し、後に頭取を務めた。
製糸業・製油業・鉄道事業にも携わり、長岡を復興に導いた町民側の代表的人物。

山田 又七 (やまだ またしち)(1855年-1918年)
紡績業を営んだのち石油事業に着手、明治26年宝田石油会社を創設し、と並ぶわが国二大石油会社に育てた。 「令終会」を興し、悠久山を整備した。

長岡市HPより所収

柿川夜桜閑話 55 ガマと手水鉢 宝田石油 山田又七

アい。

三島 億二郎 (みしま おくじろう)

三島 億二郎

(1825年~1892年)
佐久間象山に学び、ペリー来航の際は幕命により浦賀に偵察に赴いた。
戊辰戦争では軍事掛として各地に転戦。戦後は長岡藩大参事として藩士家族の救済と産業の復興にあたった。
長岡復興の恩人。

岸 宇吉 (きし うきち)

 岸 宇吉

(1839年~1910年)
三島億二郎らと「ランプ会」を開き、第六十九国立銀行の設立に参画し、後に頭取を務めた。
製糸業・製油業・鉄道事業にも携わり、長岡を復興に導いた町民側の代表的人物。

山田 又七 (やまだ またしち)

山田 又七

(1855年~1918年)
紡績業を営んだのち石油事業に着手、明治26年宝田石油会社を創設し、日本石油と並ぶわが国二大石油会社に育てた。
「令終会」を興し、悠久山を整備した。

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