柿川夜桜閑話 48 井月と長岡
井上井月は、長岡藩の武士の出身であった。
長岡藩の指導方針は、常在戦場であった。これが単なる建前でないことは、北越戦争が示している。平時における臨戦態勢であるが、気候風土も関係している。冬の厳しい環境は、縄文以来冬は雪を掘り続けたた。死をみつめ人生を全うする精神は、忠君愛国の武士道やもののあわれと異なる。刀のかわりに詩を、戦場のかわりに旅を選んだ詩人の内面は武士であった。伊那谷では、各地を転々とし、お世話になった人に俳句を作り、寺社では揮毫した。これは宗祇以来の旅の詩人の伝統であり井月のみではない。人々に井月は愛され今も沢山の句碑が建てられた。その点は良寛にも似る。持ち物は、本と筆記具、芭蕉の小像、杖、瓢箪のみ。最後は野垂れ死にだったが、死に動じなかった。その意味では長岡藩士であった。
お墓したしくお酒をそゝぐ 山頭火
古い長岡人は故郷を離れてた身内を、旅に行ったと言う。土着性の強い土地柄で旅が意識されたと思う。井月は決して長岡に近づこうとしなかった。その理由はわからないが、かえってその人生は旅そのものになった。旅行は帰るところがあるが、旅そのものの人生は帰るところがない。そして死が旅の終わりを告げる。本と筆記具、芭蕉の小像、瓢箪、杖それだけしか持たなかった。徹底した行脚である。詩人は長岡に強い郷土愛があったのだろう。長岡へ帰れば詩人でなくなることを嫌ったかもしれない。山頭火も旅そのものが人生の詩人であった。
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